2013年12月10日火曜日

途中経過

藤村です。
本日案が固まりました。

ここの地面に傾斜をつけようと考えています。

イメージは

こんな感じで、少しだけ明度を上げてあるところについてる地面の傾斜で、
この場に対する記憶の無意識に関わっていけるようなものにしたいと思っています。

発想のヒントは土屋先生の階段の話で、
「踏面や高さが5mm変わると、その変化は視覚で気がつかないけど、身体感覚が狂って
踏み外してけがをする」
というところです。

目で見ても気づかない日常の変化。それは無意識と深く関わっていて、
いつの間にか慣れてしまっているんだけれども、その変化を、体の感覚は覚えている
こんなことを表現できればと思います。
アイデアを出したあと、高橋先生のところに行って、身体感覚と空間構成について少しアドバイスをいただきました
「”間違い探し”って例えば、2枚の絵を見比べるものと、1枚の絵が段々変化していくものとあるけど、後者の変化にはなかなか気づけない。体験の中で比較要素がないと、人は慣れていってしまう。
つまるところ視界というのはおそらくそういった日常の歪みを補正するものなのでは」
こんな変化も面白いと思いました。
ここを通過していく中で、段々傾斜がついていって、気づかないまま歪みの中に入っていき、振り返るとものすごい錯覚に陥るような

あとは、これをどうつくるか。
傾斜はどのくらいつけるか。
地面のレンガのテクスチャまで似せて作るなら、今からやり始めないと、技術的にバレるかもとか
視覚には完全に言及しないアプローチにするのか、、、

考え決めないといけないことが山積みですが、とりあえず方向性が決まったので、あとはつめていこうと思います。今週の最後のエスキースに、いろいろ実寸でスタディしたものを持っていきたいとおもいます。

頑張ります!

2013年11月24日日曜日

たまには楽しそうな写真を

あと、先々週の土屋ゼミ鍋会の写真も上げておきます
男しかいないと、あんまり楽しそうじゃないとか思われそうですがそんなことないですよ!


準備



材料


ゼミ生、甲谷の実家(北海道)から来た鮭!


ゼミ生遠矢の実家のちゃんこ屋のダシ汁
これがまじでうまい


鍋奉行遠矢


甲谷


まあまあの人数来ました
菊池さん、長嶋さん、臼田さんも参加


そしてこの男も
こんな感じで楽しい鍋会となりました
またできるといいですね

藤村

場所決定

藤村です。
ひと月ぶりの更新となります
芸祭が終わって、場所が決まりました。本当は2週間程前に決まっている予定だったのですが、僕が申請を出した場所は他の学生と希望がかぶっていて、その調整のために案をいくつか出していました。

一応、これで確定です。僕が申請を出したのは
ここです。

7号館と8号館の間にある、植え込みの脇にある石垣を含んだ、動線となるこのスペース。
この場所では、教室から教室への移動をする人がたくさん行き交います。

もともと、僕のテーマである「記憶」を考える自分の中での足がかりは
「歩く」という自分の行為に付帯する記憶について考えてきたということと、
鑑賞者自身にも、やっぱり「歩く」という行為を通して僕の作品に介入、体験してほしいと思ったからです。



あと単純にこの石垣のシーケンスがかっこいいなと思ったからという安易な理由です

場所の調整が行われるまで、植え込みの方に展開させていこうかとも考えていましたが、植え込みの方はもう一人の方に譲るというか、別にそこまでこだわりもなかったので、僕は石垣のこっち側で展開させようと思います。

動線であるこの場所は、「無意識」という記憶に支配されているなと感じました。
ここを歩く人が、きれいだなあ、いい場所だなあなんて写真を撮り出すこともないし、景色を眺めながら歩いたり、立ち止まったり、腰掛けたりして、感動するような場所でもない。
完全にニュートラルで、何もなくて、気づきや感動と無縁の場所だと思います。

実際にこの場所にいると、石垣の絶妙な高さや、7号館のディテールなど、芦原先生の設計の魅力が随所に感じられたり、自分の無意識の中に埋もれてしまっていた空間の認識、発見がありました。
人は視界に飛び込んでくる情報の全てを必要なものとそうでないものに分別して、必要なものだけを取り入れ、構成されたそれを「認識」とか「現実」とかいうふうに呼んでいますが、それは世界の全てではなくて、言い換えればつまり見えているものも決して正しいと言い切れない、
全ての正しさの中の一部でしかないんじゃないか、という風に思いました。
僕は「歩く」という行為はまさに「無意識」だなあと思っていて、
最近「歩きスマホ」なんて呼ばれていますが、みんな現実の街を歩きながら、携帯電話やスマートフォンによる仮想現実の世界に入り込んでしまっていて、じゃあ僕たちはどこを歩いているんだろうと考えています。
意識がそこにない状態なら、本当にそこにいたことになるのか、
ならないとしたら、そのとき自分の存在はどこにあるのか、
意識がそこにない状態で、記憶はどこにいくのか、
それを表現したいと思っております。

コンセプト、というか狙いは大体こんな感じでまとめます。



2013年10月20日日曜日

卒業制作

藤村です。
15日間連続課題おつかれさまでした。大変だったけど、充実していた気がします。
作った作品の方はコンセプトもいっしょに、今度写真に撮ってアップしようと思います。

このまま卒業制作にシフトする意味で、昨日の講評を受けて、今考えていることをまとめようと思います。

先週出した展示場所希望申請には、「記憶のゆがみ」というテーマで案を提出しました
記憶には色々な意味があって定義することが難しいから、そのどれかにフォーカスを当てないといけず、そのことをずっと考えていましたが、全く決まりませんでした。

焦りまくって場所をどうするのか、という先週のゼミでの話の中で、もう一度「記憶」という言葉に魅力を感じることになったきっかけである「地図を描く」という行為を掘り下げました。
やったのはJR新小平駅からむさびまでの、いつも僕が通る道です。これを何も見ずに記憶だけでその位置関係と建物の並びなんかを書き出すのですが、これがなかなかに辛かったです。
まず、普段見ているはずなのに殆ど思い出せないこと、はっきりとした印象のある建物が殆どないことが意外でした。
いつも僕は何を見ながら学校まで行っているのでしょうか。
本当に学校まで行けているのでしょうか。
そういう哲学的なことは置いておくとして、ひとつおもしろいことがありました。
頭の中に残っている映像を、鳥瞰で紙に変換し直す行為の中で、ゆがみが出てきたのです。
奥行きを鳥瞰で表すときに、あるはずの道が記憶の地図上で抜け落ちていたり(あとで見返して、自分でもはっきりおかしいと分かるくらい印象に残っている道)
あるはずのない家が地図上で出来上がっていたり
地図として完成させようとするから、思い出せないところを埋め合わせしようとして、無理矢理描いてしまった家、覚えているのに、描くことができなかった道。
記憶が不安定なものだから、こんなゆがみがいくつもできあがっていました。
アイレベルの視点と鳥瞰との多次元的操作の中に起こるこの不思議な空間は、記憶が抜け落ちていたり、意識していない無意識の、「記憶の暗闇」というふうに僕は捉えました。

これを卒業制作として空間に表現するため、鑑賞者にも2つの視点で作品に干渉してほしいという理由で、7号館と8号館の間の植え込みと、その脇の石垣のあたりを展示場所として申請しました。


で、昨日の講評ですが、核心をつかれたような言葉がいくつもあって、例えば

「社会の中の、不満や矛盾、それって何?という社会に対しての批判的な姿勢」
「社会派的な思考をしつつ、一方で記憶という個人的なものにテーマを置いている謎」
「物質や形態の内側、普段見えないはずのものを見せる行為」
「毎日鏡を見るように、見えているものを確認することで自分の所在を確認している」

など、ものすごく自分でも思うところがあって、
僕は決してメディアを批判しているわけではありませんが、映像のみでやり取りされる情報というのを、本当に信じてはいけないと思っております。
その代表的なものがパソコンやテレビなんかですが、知らないこと、知らないほうがいいこと、たくさんありますけど、表面だけを信じて生きるのも全てが正しいとは言えなくて、それで、この卒業制作で、そんな問いかけも同時にできればいいなと思いました。

話が前後しますが、鳥瞰というのはその通り人が見るはずのない景色です。
それを地図で表して、なぜ目的地まで行けるのかというのもよくよく考えればおかしな話ですが
なにか面白くできそうな気がしているので、このまま進めていこうと思っております。

少し間が空いてしまいますが、頑張りましょうー
土屋スタジオ鍋もそのうちに楽しみにしております

藤村

2013年10月1日火曜日

藤村です。

夏休み明け初めての更新ということですが
こないだゼミで撮った、額田の資料のための写真をすべてあげておきます。
明日からバイトが入ってしまいましてゼミ室に顔を出すのが難しくなりそうなので。
いくつか重複してますが、ご了承ください。































さて今週のゼミは実像をもってこいとのことなので、ようやく手を動かし始めましたが、
まだまだ先が見えず不安はたくさんです。

僕は、僕自身がどうして記憶という言葉に惹かれているのか、それを整理する意味で
東京散歩の時にやっていた「記憶で地図を描いてみる」のをもう一回やってみました。
googlemapで印刷した白黒の地図の、歩いたことのある道にマーカーで色を付け、そこで起きたこと、自分の感情などを思い出せる限りメモするというような作業です。

やっぱり書いている間に、記憶が重なってどんどん地図が詳しくなっていくその過程がすごくおもしろいなと思います。
記憶が記憶を呼び覚ますというか、思い出話に華を咲かせているときの「あーそういえばあん時あんなこともあったよね」みたいな感覚。

今、俯瞰的な視点で記憶を振り返るからこそ見えてくるこの変化。これが僕が思う、記憶の面白さだと思います。作っている間にどんどん形が変わってくるみたいに、見る度に形を変えたり、違う形で見えてきたり。
そういうことをしたいなあと思うのですが、具体的な形はまだ見えず、言葉でごまかしている感があり、非常に悔しいです。
この地図は、東京散歩の時に製作したものなので、当時の見解に頼らず新しいものを提示できるようにしたいと思います。制作費を稼ぐためのバイトもしつつなので、時間に限りがありますが、頑張ります。頑張りましょう。

藤村