2013年11月24日日曜日

場所決定

藤村です。
ひと月ぶりの更新となります
芸祭が終わって、場所が決まりました。本当は2週間程前に決まっている予定だったのですが、僕が申請を出した場所は他の学生と希望がかぶっていて、その調整のために案をいくつか出していました。

一応、これで確定です。僕が申請を出したのは
ここです。

7号館と8号館の間にある、植え込みの脇にある石垣を含んだ、動線となるこのスペース。
この場所では、教室から教室への移動をする人がたくさん行き交います。

もともと、僕のテーマである「記憶」を考える自分の中での足がかりは
「歩く」という自分の行為に付帯する記憶について考えてきたということと、
鑑賞者自身にも、やっぱり「歩く」という行為を通して僕の作品に介入、体験してほしいと思ったからです。



あと単純にこの石垣のシーケンスがかっこいいなと思ったからという安易な理由です

場所の調整が行われるまで、植え込みの方に展開させていこうかとも考えていましたが、植え込みの方はもう一人の方に譲るというか、別にそこまでこだわりもなかったので、僕は石垣のこっち側で展開させようと思います。

動線であるこの場所は、「無意識」という記憶に支配されているなと感じました。
ここを歩く人が、きれいだなあ、いい場所だなあなんて写真を撮り出すこともないし、景色を眺めながら歩いたり、立ち止まったり、腰掛けたりして、感動するような場所でもない。
完全にニュートラルで、何もなくて、気づきや感動と無縁の場所だと思います。

実際にこの場所にいると、石垣の絶妙な高さや、7号館のディテールなど、芦原先生の設計の魅力が随所に感じられたり、自分の無意識の中に埋もれてしまっていた空間の認識、発見がありました。
人は視界に飛び込んでくる情報の全てを必要なものとそうでないものに分別して、必要なものだけを取り入れ、構成されたそれを「認識」とか「現実」とかいうふうに呼んでいますが、それは世界の全てではなくて、言い換えればつまり見えているものも決して正しいと言い切れない、
全ての正しさの中の一部でしかないんじゃないか、という風に思いました。
僕は「歩く」という行為はまさに「無意識」だなあと思っていて、
最近「歩きスマホ」なんて呼ばれていますが、みんな現実の街を歩きながら、携帯電話やスマートフォンによる仮想現実の世界に入り込んでしまっていて、じゃあ僕たちはどこを歩いているんだろうと考えています。
意識がそこにない状態なら、本当にそこにいたことになるのか、
ならないとしたら、そのとき自分の存在はどこにあるのか、
意識がそこにない状態で、記憶はどこにいくのか、
それを表現したいと思っております。

コンセプト、というか狙いは大体こんな感じでまとめます。



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